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● 18年08月10日 ひょうきん弁護士

ひょうきん弁護士2 №209 弁護士30年の表彰を受けて(2001年事務所だよりから)



30年前、私は北九州第一法律事務所に入所した。働く人達の人権を守る弁護士になろうと決意してのことだった。

その当時、北九州第一法律事務所の所長三浦久は北九州市長選挙に出馬し、青年政治家としてのスタートを切っていた。18期の坂元洋太郎氏はカネミ油症事件の事務局長、20期の吉野高幸氏はカネミの専従、21期の河野善一郎と塘岡琢磨氏は労働事件で忙しかった。先輩弁護士は輝いていた。

私は自分の能力に自信がなかったので、この人達を支える弁護士になろうと様々な一般事件を受任した。少しずつ事件は増し、3年もすると民事事件が120件、その内労働事件が30件になった。労働事件の証人尋問の打合せは最低2回は必要なので、確実に週4回の夜がつぶれた。カネミ油症事件の弁護団会議なども入り忙しかった。1月4日から働き、5月の連休まで土日も働き続けた。このままでは過労死するのではないかと思った。慟けど慟けど我が暮しは楽にならなかった。

その頃「流した汗が報われる政治」というのが社会党のスローガンだった。私は私の後に入所した若者達と「流した汗が報われる事務所をつくろう」と酒を飲んでは愚痴を言った。

日曜日に仕事に出掛けようとすると、子供が追いかけてきた。

「どうして他の人は日曜日は休みなのに、お父さんは仕事に行くの」

「お父さんも仕事は好かんし、真理子と遊びたいけど、お父さんを必要としている人がいる以上仕事に行くしかないの。ごめんね」と、仕事に出掛けた。本当に私は仕事は好きではないし、辛かった。

私も中堅弁護士になり、裁判に勝つただけでは問題が解決しない困難な事件も受任するようになった。

北九州市は部落解放同盟の承認がない限り、同和施策は受けられないという窓口1本化と、予算の前になると市役所大会議室で開催する糾弾を容認する政策を取っていた。部落の中には、こんな方針では部落差別を拡大するだけで、部落差別をなくすことには役に立たないと考える人達もいた。

そうすると、北九州市はこの人達の子を保育所から追い出したり、高校生の奨学金を打ち切ったりした。

北九州市を被告に裁判をして私は連勝を続けた。

つづく


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