● 17年07月11日 ひょうきん弁護士
ひょうきん弁護士2 №191 若松高校奨学金事件 ① 全解連波打支部の結成
若松区稲国地区に部落解放同盟(以下解同と略称)が結成されていたが、波打地区には解同は結成されていなかった。昭和38年頃、波打地区にも部落解放同盟(略称・解同)結成したらどうだという話があったが、その当時は地区の人々の間では、そっとしておいてほしいという意見が強くて、結成にはいたらなかった。
昭和48年の初め頃、また波打地区の人々で話し合い、その結果、差別を根本的になくすためには、やはり差別をうけている自分達が積極的に解放運動をすすめなくてはならないという結論になり、波打地区にも解同の組織を作ろうということになった。
結成された解同波打支部は部落解放のための様々な運動を行ってきた。その中で特に兵庫県で起った八鹿高校事件の現地調査や学習を通じて、現在の部落解放同盟のすすめ方に強い疑問と批判をもつようになった。
そして、丁度その頃、昭和51年5月22日の狭山同盟休校の問題が起こった。この問題はいわゆる狭山事件裁判について、これを差別裁判として位置づけ、これに抗議するために同和地区内の子供達を一斉休校させるというもので、解同がうち出したものである。この方針は波打支部にも伝えられ、その際、解同は、この方針に反対する者は同和対策事業の対象からはずすといってきた。
それで波打支部は、この問題について何度も何度も議論した。地区内の人々の意見は殆んど「子供を政治紛争に巻き込むのはよくない」「子供に自分は部落出身だと宣言させることはとてもできない」という意見で、同盟休校には反対だった。
しかし反対すると同和対策事業の対象からはずされてしまうということで、二者択一をせまられたわけである。そして議論の結果、同盟休校には賛成できない、現在の解放運動の進め方では真の部落解放は実現できない、全解連【全国部落解放運動連絡会(略称・全解連)】こそ真の部落解放をめざす団体だ、という結論になり、同盟休校に先だつ昭和51年5月9日波打支部の臨時支部総会を開き、満場一致で支部ぐるみで部落評放同盟を脱退し、全解連に加入するという決議を行った。
勿論この裁判の原告となっている人々もこの時、解同を脱退し、全解連に加入したわけである。